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なつかしい人

先日、サラ・ロイさんのお話をきいているときに、なぜかなつかしさを感じた。アルゼンチンにいる友人に似ている… おしゃれで、温かくて、洞察力に長けた感じ。ふしぎなことに、彼女もユダヤ人なのだ。とても熱心なカトリック教徒ではあるけれど。

友人とは初めてあったときから、「壁」を感じなかった。好奇心いっぱいにこちらのことを聞いてくるのだけれど、偏見というものがほとんど感じられず(あったとしても、彼女自身がそれを意識しているために)それがまったく苦痛に感じられない。もちろん人生経験とか(私より年長だし、彼女自身が乗り越えてきたコンプレックスについての話もいつかきかせてもらったことがある)そういった要素もあるのだろうけれど、私より数歳年下のユダヤ人の友達にも、同じようなわけ隔てのなさを感じたことがあるので、それだけではないだろう。そのことと、サラ・ロイさん言うところのユダヤ主義の特質のひとつである「寛容さ」と、なにかつながりがあるのだろうか…※サラ・ロイさんの書かれたものはこちらで→ http://0000000000.net/p-navi/info/news/200902242113.htm

私が感じていることは個人的な印象にすぎないし、簡単に結論が出せる問題ではないだろうけれど、先日のお話を聞いてはっきりわかったことは、イスラエルという国家がいましていることと、ユダヤ主義はイコールでは結べないということ。また、イスラエルの政策に反対することと、ユダヤ人全般に対してパレスチナ問題の責任を押し付けることは違うということ。

もうひとつ、なつかしさ、というのか自分の若い頃を思い出したのは、フロアーから出された(若い学生の)「当事者ではない、第三者である自分がどのようにイスラエルパレスチナ問題にかかわれるのか」という質問。たしかに、ホロコーストの生き残りの両親から生まれたわけでもなく、在日朝鮮人でもない(どころか「日本人」である)自分が、どのつらさげて植民地主義だのなんだのにかかわることができるのだろう、という悩みは理解できる。それに対して徐さんが「完全に当事者を代弁できる者はいないのだよ(たとえば”本当の”ホロコーストの犠牲者たちはもう語ることのできない死者だし)」と答えていらしたのだったが、質問者の姿に、ナイーブだった(笑)二十代の自分を見るようだった。あの当時は、私も自分は当事者ではない、と思っていたんだよね。でも… いつかわかるときがくると思う。自分もやっぱり「当事者」だって。それは、徐さんやロイさんのそれとは接続の仕方こそ違うかもしれないけど、まだあまり多くの人が語りえないほどの問題を、私たち自身も抱えているということに。

これから読みたい本
プリーモ・レーヴィへの旅  新しい普遍性へ―徐京植対話集

コメント欄で教えていただいたのですが、当日質問されたedouard-edouardさんの日記 http://d.hatena.ne.jp/edouard-edouard/
私のまとめは、はなはだいい加減なので、こちらを参照されると4日の様子がよくわかるのでは、と思います。zames_makiさん、どうもありがとうございました。