ACT:戦火の中のガザ病院

〜アハリー・アラブ病院を支援する会からのお便りを転載します。(この団体の連絡先はパレスチナの人たちにメッセージが送れます - casita_rosadaにあります)〜

アンドリュー・ホッグによる報告

09年2月10日 エルサレム
空爆と銃撃による攻撃は止み、イスラエル軍及び戦車は国境を越え撤退していったが、シュヘイラ・タラジは、ガザ地区に住む多数の人々と同様、この攻撃が簡単に止むとは全く思っていない。

タラジが医長をしている病院は、イスラエルが地区を封鎖しているため、医療品不足は日常的だが、それでも少しずつ医療機関としての通常機能を果たすことができるようになった。

壁にはなまなましい爆弾の破裂痕が残り、屋根は弾丸の穴が開き、ガラス張りのはずの窓はほとんどが、ビニール張りだ。22日間に及ぶイスラエルのガザ攻撃中は、毎日20〜40名もの負傷者が次々に運ばれてきたが、今は新来患者数も通常にもどった。

主に榴散弾を浴びて苦しんでいるのは、40%以上が女性と子どもである。奇跡的にほとんどが助かったが、全員ではない。タラジは、小学校の近くに落とされた爆弾の破片が当たって血だらけで死んだ6才の男の子のことを思い出すたびに衝撃を禁じ得ない。

ベッド数50のアル・アハリ・アラブ病院は、聖公会エルサレム教区が運営し、国際ACTの構成団体によって支援されているが、医薬品、検査スタッフ、燃料、すべてが不足したままだ。

しかし、タラジはくじけない。「私たちは、宗教、男女、政党、社会層の差別を越えて、すべての人を治療することを前提にしています」と言う。「患者はみんな平等です。違いを越えて治療が必要な人を助けるのが、教会の任務です」。

「攻撃の間、毎日24時間の、その瞬間、瞬間が、私たちにとって勝負でした。ありがたいことに多少とも役にたったかと思います。」

「しかし、この攻撃はガザ市民の大虐殺を狙ったものです、私たちの家も、病院も、学校も、町もみんなやられました。大人たちが経験した恐怖は子どもたちの心にも植えつけられました。私たちはこうしたことを容易に許すことができません。しかし許していかねばならないのです。攻撃を止めさせ、平和と正義が勝つことを願う ばかりです。」

「私たちだれもが、実際になにかしらのトラウマを抱えています。正気にもどるまで時間がかかります。戸がバタンというだけで、恐怖が襲ってくるのです。」

ガザ市中央にあるアル・アハリ・アラブ病院は、この地区で最も古い100年以上前のイギリス植民地時代に建てられた趣のある、優雅な建物である上、18名の医師、45名の看護士、12名の専門技師を揃えていることが自慢だ。病院には、内科、外科の他に小児科、泌尿器科、整形外科、放射線科、冠疾患科、火傷専門科、乳がんのス クリーニングがあり、老人特に女性への無料食料支給も行っている。

財政支援は、国連難民救済事業機関(UNRWA)が行っており、入院患者相当数の治療費、一人一日につき総額90ドルを出費している。これらの患者は、10ドル以上を寄付することになっており、また外来患者もわずかの額だが支払うことになっている。奉仕、品物、現金の寄付はいつでも受け付けている。

「攻撃以前からの包囲も私たちをとても苦しめています」とタラジ。イスラエルは、07年にハマスパレスチナ政権を執って以来、工業及び農業生産物の一部にすぎない食料、医薬品、生活必需品でさえガザへの搬入を厳しく制限していると言う。

「私たちは、以前から医療品が不足しても手に入れることはできず、ガザで治療ができぬ患者をガザ以外の病院に委託することもできませんでした。イスラエルの許可を待っているうちに、死ななくてもよい多くの命が失われていきました。」

「燃料がないのです。発電所は、燃料に限りがあるため一日中電気を供給するというわけにはいきませんでした。電気が止まれば病院はただの建物にすぎません。自家発電機があるものの燃料がなくてはなんの役にもたちません。つまり、私たちは手術ができる日数を最小限度に抑えねばならず、一週間に3日しかできなかったので す。」

燃料不足は攻撃前から続いており、今も変わりない。もちろん攻撃中はもっと悲惨だった。
「戦闘中、ガザでは電気が止まり、患者の食事も薬も底を突きました。飲み水もなく、水道水を煮沸しなければならず、しかしそれも濃い塩水でした。」

「建物は集中攻撃で絶えず揺れ動き、窓という窓のガラスは木端微塵に砕かれ、ビニールが張られるまでの10日間吹きさらしでした。寒い季節だというのに毛布もなく、窓からは冷たい風が吹き込み、凍えていました。」

「病院のすぐ近くですざまじい攻撃があったため、家族は親戚がいる病院にやって来て、病院を避難場所として使うようになりました。しかし病院にとって、これは重荷でした。特に食料不足でしたからね。」

X線機具が作動せず、レントゲンを撮ったものの、現像をするため別の病院へ走らねばならなかったこともありました。また市内の別の病院から搬送された重態の患者を受け入れなければならないこともありました。」

タラジは、1985年、ACT構成団体のクリスチャン・エイドの推薦によって英国文化振興会から奨学金を受けて、英国リーズ大学に留学、「健康管理と計画」を学んだ。その後奨学生の義務として国際ACTとその構成団体のために有給で働いている。

「ガザの人々が食料と医薬品を入手できるようにみんなが最善を尽くしてくれました。NGO国際ケア(CARE)そして国連難民救済事業機関(UNRWA)にも心から感謝しています」とタラジは語った。

人道支援に取り組む「ACTパレスチナ連絡会」構成団体:中東教会協議会パレスチナ難民奉仕部,国際正教会キリスト教奉仕団,東エルサレムYMCA,ノルウエー教会支援(NCA),デンマーク教会支援(DCA)など5団体。