パリジェンヌと言えば

げんきなマドレーヌ (世界傑作絵本シリーズ)

わたしが人生でいちばん最初に出会ったパリジェンヌはこの方でした。

「パリジェンヌ」…なんかいい匂いがしてきそうな単語です。そして日本でも大人気。アマゾンの書籍タイトルでも326ヒットしました!(2018年2月18日調べ)

そんな”みんなが大好き”なパリジェンヌについての展示が現在世田谷美術館で開催中とのこと。24日には

鏡のなかのボードレール (境界の文学) の著者で翻訳者のくぼたのぞみさんのお話を聞ける機会もあります。ひとひねりありそうで、楽しみです。

以下、世田谷美術館のHPより。「ボストン美術館 パリジェンヌ展 時代を映す女性たち」開催概要

パリという魅力あふれる都市に生きる女性、パリジェンヌ。サロンを仕切る知的な女主人、子を慈しむ美しい母、流行を生み出すファッショニスタ、画家のミューズ、そして自ら道を切り開き才能を開花させた画家や女優――その多様な生き方は、今なお私たちを惹きつけてやみません。

本展覧会では、マネの《街の歌い手》をはじめ、ドガルノワールなど印象派の巨匠が描いた女性の肖像、カサットやモリゾなど女性芸術家による傑作、カルダンやバレンシアガの斬新なドレスからブリジット・バルドーほか映画や舞台で活躍した女優のポートレートまで、ボストン美術館所蔵の多彩な作品約120点を通して、18世紀から20世紀のパリを体現する女性たちの姿に迫ります。

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/

ドキュメンタリー映画2本

 劇場公開時に見逃したアルゼンチンつながりのドキュメンタリー映画を2本観ました。

 

ひとつめは、タンゴの起源がフィンランドにあると聞いて、これは「聞き捨てならぬ!!!」とばかりにフィンランドへ乗り込んだ、3人のアルゼンチン人のタンゴ音楽家の道中記。

映画『白夜のタンゴ』公式ウェブサイト

初めて知ったのですが、タンゴの発祥について、フィンランドで培われたものが、船乗りたちによってブエノスアイレスに持ち込まれたという説があるのだそうです。今のところ一番優勢なのは、人の移動と共にスペイン、アフリカの音楽がまざりあい、ブエノスアイレス(もしくはモンテビデオ)で花開いたという説ですが、記録を探すのが難しいジャンルのこと、結論を出すのは難しいようです。

だから、これも謎解きの映画とは言えないのですが、フィンランドのタンゴの名曲や、すばらしい音楽家たちとの出会いと、にぎやかな都市ブエノスアイレスとは対極にあると言ってもいいような静かで美しいフィンランドの森林や湖の風景、沈黙の音楽が描かれていて、うっとりします。

白夜のタンゴ [DVD]

白夜のタンゴ [DVD]

 

 

もう一本は、マルタ・アルゲリッチの末娘が監督をつとめたこちら。 

私はピアノ音楽にはうとくて、社会史的な興味で観はじめたのですが、彼女の存在感にひたすら圧倒されます。

若かりし頃の美貌にも、生き方にも… ピアノを始めたのが2歳8か月、8歳でデビュー、十代で国際的な音楽コンクールで優勝したとか。

また、映画の中では12歳と語られているのですが、若くして両親と共にヨーロッパへ移住、そこにもびっくりするようなエピソードがありとても興味深かったです。詳しいことは、DVDでお確かめください。

主な内容はアルゲリッチの人生(いまもご存命ですが)と娘たちを中心とした家族についての物語であり、各地での演奏シーンなども映し出されます。そのなかには別府の音楽祭のものもありました。アルゲリッチには3人の娘さんがいますが、そのなかで母と同じ姓を名乗っているのはひとりだけです。父と母と両方の姓が名乗れる国であっても、やはり「姓」とか親権の問題はややこしいのだな、と思わされた部分でした。

母と娘の親密さを感じさせる監督自身の手による映像が多用されているので、心温まるお話かしら?と思えばさにあらず。さりげない言葉のはしばしに緊張感が走る、スリリングな小説のような映画でした。

春の光

 立春をすぎたあたりから、寒さはあまり変わらないけれど、光がいちだんとやわらかくなってきたのを感じる。

中国、日本の太陰太陽暦で暦日と季節を合わせるために設けた、12個の中気と12個の節気の総称を二四気、節気といい、立春はそのひとつ。「春の始まり」をあらわし、太陽暦の2月4日ごろだという。

人間はまだ冬気分だったりするが、植物の方が敏感で、道端の雑草の花が咲きだし、ベランダの鉢植えの球根の芽が急に元気になって伸び始めた。

昔のひとの知恵はすごいなあ、と感じ入るばかり。

 

阿賀野川に会いに行ってみた

宇井純さんという方が、反公害運動にかかわり水俣など多くの地域を見てきた経験から「大規模開発をやったり大資本に頼ったところは寂れてしまい、住民運動をやっていたところは元気で頑張っている」「運動というのは、やっている最中はえらく骨が折れてくたびれるものですが、やっただけのことはあります。」(『救現』9号、2005年)と書いておられ、そのことがずっと気になっていた。

川好きという個人的な趣味もあって、この10年ぐらい、多摩川や渡良瀬を歩いたり、まだ行ったことはないけれどホンジュラスでダム建設に反対して殺害されたベルタ・カセレスさんのことを調べずにはいられなかった。それが高じて、この秋、阿賀野川を見に行った。

阿賀野川に行ったのは、『阿賀に生きる』という映画がきっかけなのだが、1992年製作のこの映画、じつはだいぶあと(2007年)になってから観た。なんと製作のためにスタッフが現地に家を借りて住みこんだという手のかかった映画なのだけれど、公害(新潟水俣病)を告発するというトーンではなく、どれほど川の恵みを受けて人々が暮らしてきたかということが伝わってきて、それだけに公害のもたらしたものの大きさを感じることのできる作品だ。

今回、日程の関係で新潟水俣病を知るための施設

www.fureaikan.net

には行くことができなかったけれど、阿賀野川に面した絶好のロケーションの宿に陣取って(ご両親様ありがとうございましたw)、川を見ていた。ちなみに上記の映画撮影隊が住みこんだ家もそこからそう遠くない場所にあったようだ。

そうしたら早朝にボートでやってきて、川で何かしている人がいるのである。あとでライン下りをしたときに聞いた話では、しかけにかかったエビや川魚を集めている人たちだそうだ。

また、実際に目にしてみた阿賀野川の水の多さにも驚いた。年間総流量では国内第3位なのだそう。新潟には信濃川もあるわけだから、これだけの水の豊かさがあっての米どころなのだなあ、ととても単純な感想を抱いたのだったけれど… ついでに言うと、ご飯が美味しくて、駅で売っている幕ノ内弁当を、ほぼ人生で初めて美味しい!と思いました(笑)

そんなふうに実際に目にして感じたのは、川も人間の一部なんだということだった。人間も自然の一部とはよく言われることだけど、川も人間の一部であって、その川が汚されるということは人間も傷つくということ(有害物質が溶け込んでいる場合は物理的に傷つくのだが)。そして、それに気が付いて闘うことが、人間性のとても大事な一部を取り返すことにつながり、「闘った人たち(=地域)」を、豊かに強くするのではないか、ということだった。このテーマ、もう少し考えてみたいと思います。

ボリビアから世界へ

(たぶん数世代前までは日本人の父母から生まれ)日本で生まれて日本で育ったので、人種差別というものを経験したことがなかったのだが、20をちょっとすぎたころにアルゼンチンへ留学して、自分が肌の色を理由に差別されることがあるのだということを体験した。

たとえば、「人種はまざると美しくなる。知り合いにも日系人との混血の子どもがいて、とってもいけてるんだ」と言った人が同じ口で「でもうちの子には嫌よ」というのを聞いたり。

欧州人と結婚して欧州へ移住する娘が、南米人だといって差別されるのではないか、と心配しているのを励まそうとして、「でもあなたはアジア人ではないし」というのも聞いた。

道を歩いているときにじろじろ見られるのは当たり前だが、圧観だったのは同じ留学生仲間のアフリカ系の男の子と歩いていた時。これはもう遠慮も何もなく穴のあくような視線を感じた。

とはいえ、石を投げられるとかいうことはなく、実害と言えば商店だか役所でちょっと後回しにされるという程度ではあった。そこは移民の多い国ゆえだったのだと思う。たぶん日本で非白人系の人たちが感じるものよりはよほどましだったろう…

そんな国なので、先住民族への差別も容赦はなかった。(いまでは多少改善されているけれども、まだ問題はいろいろある)

しかし考えてみると、ラテンアメリカのほとんどの国では、植民地からの独立はもう100年以上前に完了しているのである。どうして先住民族がそんなにまで差別されなくてはならないのか。それはものすごく簡単にいってしまえば、独立が植民地生まれの白人のためのもので、社会の制度もすべて彼らに有利なものになっていたからだ。

だから、ボリビア先住民族の出身の大統領が誕生したことはとても大きな出来事だったのだと思う。そんなボリビア(いまでは開発主義に走っているという批判もあるけれど)から、環境活動家のパブロ・ソロンさんとマリー・ルーさんが来日され、明日から講演活動をされる。ソロンさんは、元ボリビア多民族国国連大使(2009.1~2011.6)。「水に関わる人権」、「国際マザーアースデー」「自然との調和」などの決議の採択に尽力された。ルーさんはグローバル森林連合のメンバーで、森を守ってきた先住民族、地域のコミュニテイ、女性の権利に重点を置いて調査、教育、キャンペーンなどを展開しているとのこと。

明日26日(木)は15:00~17:00議員会館

27日(金)11:00~12:30上智大学

同日 午後6時半 連合会館

30日(月)午後6時半 同志社大学

31日(火)午後6時半 エルおおさか

というスケジュール。くわしくは下記。市民社会フォーラムの告知

【告知】パブロ・ソロン/マリー・ルー講演会「水への権利」、「マザーアースの権利」(国連決議)ボリビアから世界へ(2017/10/31水@大阪) – 市民社会フォーラム

自分でまいた種、まかぬ種、忘れた種

ベランダで季節外れの小さな朝顔が咲きました。道端で見るヒルガオのような小さな花ですが、色は鮮やかな水色。まいた記憶はうっすらとあるのですが、どこで手に入れた種だったかな? 人からいただいたのか、道ばたで採取したのか。

そうかと思えば、全然身に覚えのないシノブ(釣りシノブの)が秋海棠の鉢から生えだしたり…

なぞのミカンの木に住んでいたアゲハの幼虫?は数日留守にしたあいだにどこかに行ってしまいました。小さなミカンの木の葉を食べつくして。

風にのってきた種や、土のなかで時を待っていた種など、いろいろ事情はあるのでしょうが、土と水と太陽の力という助けがあればこそ。長雨続きの空をみながら、少し不安になるのでした。

 

 

 

 

 

8月15日

 8月になると、戦争の話があちこちから聞こえてくるのだけれど(1941.12.8-1945.8.15の日本が米国をはじめとする連合国軍と戦った太平洋戦争の話)、日本軍のメンタリティは脈々と受け継がれているような気がしてならない。学校とか会社とか。

 わりとリベラルな内容の記事で知られる某大新聞でも、社員旅行を「全舷」という軍隊用語で呼んでいる、なんて話も昔きいたっけ。

 で、以前にも引用したのだが、(”日本”国内で、住民も巻き込んで唯一地上戦が展開された)沖縄戦にこんなエピソードがあるそう。

 北部の山中にひそんでいた沖縄県出身従軍看護婦経験者の方の証言より。
 傷をうけた患者、看護婦の仲間に加わった軍曹が、「もうわれわれはたすからない。いっしょに死のう」といいだし、手榴弾の安全線をひきぬいて、鉄かぶとにたたきつけようとしたとき、(アルゼンチン生まれの二世の)仲村渠(なかんだかり)さんがとびおき、軍曹の手へしがみついて、「班長、そんなに死にたかったら、ひとりで、どこかへいって死んでください」と叫んだ(下記148ページより 大意)

「班長、そんなに死にたかったら、ひとりで、どこかへいって死んでください」

 結果としてこのグループの方たちは助かったようなのですが、この発言をなさった方は、日本人とはま反対?のメンタリティをもつアルゼンチンの個人主義のいい面を学んでこられたのだなと思います。私も、こんな場面に遭遇したら、大きな声で言えるようになりたいです(苦笑)

 

 

続・語りつぐ戦争体験2 沖縄県で戦った

続・語りつぐ戦争体験2 沖縄県で戦った

 

 最近は、戦争の余韻がまだ東京などの街角に残っていた時代のことに興味がでてきて、いろいろと読んでいます。女性や子どもたちはどうやって生き抜いてきたのか? また気が向いたらそんな話も。