桜の季節に

宇野千代(1897~1996)という名前を初めて知ったのは、毎日新聞に「生きていく私」が連載され始めたときのことだ。「こんなひと(女)がこの国にいたのか!?」という驚きはいまでも忘れられない。

ごくおおざっぱにまとめると、17歳で小学校の代用教員として働き始める→同僚との恋愛により解雇→いとこと結婚→文学賞を受賞し出奔→複数回の同棲、結婚、離婚→98歳で天寿を全う この間自分の仕事を手放したことは一度もなく、その仕事も作家のほか、給仕、雑誌編集、デザイナーと多岐にわたる。

宇野千代さんのデザインしたものを見たことのある方はご存知だと思うけれど、彼女は桜が大好きさったそうで、デザインにもよくつかう。米寿のパーティでまとった(自らデザインした)大ふりそでも桜の文様だった。そして、岐阜の薄墨桜も、彼女によって命を救われたということで名前を知られている。

樹齢1500年以上とも言われるこの桜の古木は、岐阜県本巣市にあって、国の天然記念物にも指定されたが、何度か枯れ死しかけては復活した。そのうちの一度は宇野千代の貢献が大きいとされている。

その薄墨桜ーいまでは地域の観光の目玉ともなっている桜の古木ーを救う”村おこし話”なのかと思ったら、とてもファンタジックで残酷なおとなの童話という趣の作品だった。若木の力を借りて再生する古木という、じつは残酷な桜の姿に作家の想像力がかきたてられた結果かもしれない。

この「薄墨の桜」と、全集では同じ巻におさめられたひとつの短編には、米軍基地のある街で殺されたひとりの女性のことが描かれている。「八重山の雪」(1975)のモデルとなった女性だという。

米軍基地のあるところでは、しばしば女性への暴力事件が起こる。その犠牲者がまだ小さな子どもであったり、旅行者であれば大きくとりあげられるところだが、そのひとのように職業として米兵を「接待」するひとたちへの暴力は、取り上げられたとしても、女性の側の自己責任論にかき消されてしまうだろうということはかんたんに想像できる。

そんな心理について考えさせられることが多かったので、宇野千代がはじめてこのモデルとなる女性”チェリー”に会ったときのことばに感じるところがあった。

「…何よりも初対面の私を驚嘆させたのは、その瞳の、誰の眼にも見たこともないほど、邪気のない、水のように澄んだ色である。

 この年配になるほど兵隊の相手をした女の眼は濁っているもの、と決めることは出来ない。そう言う仕事は女の魂を荒廃させるもの、と決めることも出来ない。ひょっとしたら、こう決めつけて考えるのは、私はそう言うことをしないと思い込んでいる女たちの、或る考え違いなのではあるまいか。私はこのとき、心の中で叫ぶようにして、そう思ったものである」

たぶん、この国には今でも世間のモラルよりも自分の気持ちを優先する女性たちへの偏見の目は残っている。百年前ならなおさらだろう。そうした人たちのまざなしをつねに感じつつも、自分の生き方を、100年前から貫いてきたお千代さんならではのことばだと思う。

 

 

薄墨の桜 (集英社文庫)

薄墨の桜 (集英社文庫)