ネグラを探して

 

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(写真はメルセデス・ソーサ財団の建物で撮影)

8月から9月にかけて、ウルグアイを起点に一筆書きで、チリのサンチアゴから帰路につくまで6都市をまわる3週間の旅に出ました。40代最後の大旅行です。

 

 

今回の旅は、敬愛する歌手メルセデス・ソーサの足跡をたどることと、クーデタから45年を迎えるチリを25年ぶりに訪れたいという個人的な動機から発したものです。

ウルグアイの首都モンテビデオは、ソーサがまだアルゼンチン国内での名声を確立する前に、アーティストとして認め受け入れてくれた場所として、彼女が深く愛していた街です。下宿屋を転々とした後、友人となった人が彼女や家族に貸してくれたという家を探したのですが、おそらくこれだろうという建物は、こだわった美しい建物が多いモンテビデオでも、ひときわ壮麗な建物で、その家を見たときの彼女の感動を思うと、ソーサがウルグアイを愛するわけが少しわかるような気がしました。

ブエノスアイレスに渡って(フェリーで!)驚いたことは、ペソの急落ぶり。はじめて行ったときの1ドル=1ペソは当時の政府の政策によるものでしたが、2001年以降下がる一方で、これまでの旅の記録をひっくり返してみても、2003年=およそ1ドル0.4ペソ、私の滞在中には0.025ペソをわり、最近で0.027ペソ(9/24am2:00)という状態です。

そのブエノスアイレスでは、ソーサの一人息子ファビアン・マトゥス氏が運営しているメルセデス・ソーサ財団(サンテルモ地区)を訪問。そこからソーサの出身地トゥクマンに飛び、子どもの頃彼女が住んでいた通りや、若き日のソーサが歌っていたペーニャ(クラブ)を訪れ、その後、彼女の当時の夫やA.テハーダ・ゴメスらによってアルゼンチンの新しい歌(Nuevo Cancionero Argentino)が宣言されたメンドーサからチリへ陸路で抜け、サンチアゴへ。45年前の傷がまだ生々しい世代と、それを受け継ごうとしている若い世代のいりまじる様子を肌で感じました。

 

ソーサは私にとってラテンアメリカ文化研究への道を開いてくれた人物のひとりでありながら、どこか近寄りがたい存在でー日本では知らない人も多いかもしれませんが、彼女は大スターなので。欧米ではしばしばエディット・ピアフにもたとえられる、と書けばある程度ご想像がつくのではないかと思うのですがー1993年のフォルクローレ・フェスティバルのさいも、2003年も比較的近い距離にいながら直接会おうという勇気は出ませんでした。そしてとうとう2009年には亡くなってしまい… ですが、2003年に出版された伝記を通じ、また、今回彼女のゆかりの地をたずねてみることで、自分にとっての「ネグラ像」(”negra”はソーサの愛称)がくっきりとしてきたのを感じました。駆け足の旅ではありましたが、ソーサにつながる重要な人たちとも幸運にもお目にかかることができました。いずれまとまったものを書くつもりですが、こちらでも少しずつお伝えしていきたいと思っています。

 

Mercedes Sosa, La Negra (Edición definitiva)

Mercedes Sosa, La Negra (Edición definitiva)

 ※初版は2003年。2009年にソーサが没してのち、序文と年表に一部加筆された。