夏の記憶

小学生のころの夏休みというと、母に連れられていった海辺の記憶がよみがえってくる。そのころ住んでいた東京の下町と山の手のせっするあたりの公民館の企画で知り合った仲間と読書会をしていた母は、末っ子の私を連れて毎年東京近辺の海辺の民宿で行われる合宿に通っていたのだった。集まるのは女性ばかりで、日本各地から東京に出てきたその人たちの生い立ちをきくだけで、まるで昭和戦後史をみるようだった。給与生活者の家庭は少なく、自営業で夫婦共働きという人が多かったように記憶している。

昭和戦後史などと書いたけれど、当時の私にその人たちの話がわかるわけでもなく、ただ夕食を食べたあとも延々語り続ける母たちのそばで、いつのまにか寝入っていたのだった。おとなになってから(いまも進行形で)、母から聞かされた話や、思いがけないところで見かけたり耳にする彼女たちの活動の意味がじわじわとわかりかけているところ…

そんな経験があったからなのだろうか。義務教育からながくつづいた大学時代にもことさらフェミニズムの洗礼をうけた記憶はないのだが、自然に女性ばかりの翻訳の勉強会に加わり、その延長線上で第三世界の女性文学にフォーカスした勉強会にも数年間在籍した。このグループは中心的な存在だったひとが引っ越したことで立ち消えになってしまったのだけれど。

そういった集まりと、男性が主たる・または主催するような勉強会の違いは、お酒が入らなくても(入ればなおさら)テンションの高い人たちが、台所の話から、結婚・子育てにまつわる悩み、そうしたことの延長線上にあるものとして女性たちの文学を語り合えたことにある。そんな場で、私自身は大学にいたときよりももっとたくさんのことを学んだ実感がある。いま、あのころの母たちや姉たちの年齢になって、自分自身が若い人たちとそんなふうにかかわっていけるかどうかわからないのだけれど、いつかそんなチャンスがあればとは願っている。