沖縄県で戦った

沖縄県内での地上戦は、1945年の4月から6月にかけてが、もっともはげしかったそうです。ちょうどいまごろの季節です。

以下は先日紹介した戦争体験の聞き書きの本から。なかにいくつか興味深い証言があるので紹介します。

北海道川上郡弟子屈町出身のアイヌ民族である弟子(てし)豊治さんは、1944年8月に沖縄に入って、終戦を沖縄で迎え、多くの人命が失われた真栄平(南部・平和祈念公園よりやや北)に1966年「南北の塔」を建立した方です。1981年にはアイヌの法事をしたということで、おそらくこの本の表紙はそのときの様子をもとにしていると思われます。

この方は最後まで一等兵だったそうですが、

・「防衛隊」として動員されていた地元の人が、近くにいる家族に会いたい、というので自分の一存でゆるした。

野戦病院が解散になったので自決しようとしていた看護婦から手りゅう弾をとりあげて、自分の属する本部の医務室につれていき、そのために必要になった食糧を軍から盗んで食べさせたこと。その人たちは戦後もいきのびたこと。

・六月十九日に、「もうこれで戦争はおわりだと思った」ので、防衛隊をかってに解散させて家に帰し、戦死したと大隊長にいつわりの報告をしたこと。

また、別の方の証言にこのようなものがありました。

北部の山中にひそんでいた沖縄県出身従軍看護婦経験者の方の証言より。
傷をうけた患者、看護婦の仲間に加わった軍曹が、「もうわれわれはたすからない。いっしょに死のう」といいだし、手榴弾の安全線をひきぬいて、鉄かぶとにたたきつけようとしたとき、(アルゼンチン生まれの二世の)仲村渠(なかんだかり)さんがとびおき、軍曹の手へしがみついて、「班長、そんなに死にたかったら、ひとりで、どこかへいって死んでください」と叫んだ(148ページより 大意)

本書で語られている沖縄戦についての13の証言の重さには、どれもかわりはないけれど、弟子さん、仲村渠さんの勇気には、希望を感じることができました。ひとつの価値観にそまってしまわない「日本人」になっていけたら、もっと平和な社会が作れるのかな、と思います。